本多産業社長の自分史

「布施の心」長崎新聞2023/2/6より連載


雲仙市吾妻町にフッ素樹脂製品の自社製造工場を構える本多産業株
式会社は、今年3月に設立50周年を迎える。雲仙市で生まれ育った創
業者本多克也氏は高校卒業後上京。大学・社会人生活の中で化学の基
礎を学び、挫折や出会いを通してやがて独立を志していく。本シリー
ズは化学者として粘り強く研究を重ねてきた本多氏の個人史と創業の
記録を、徳永耕一氏(ジスコ不動産社長)による聞き書きで描いていく。

1[山田村1]
 「こん子はもう死ぬとばい」
 原因不明の重病で数日前から床に臥していた私の耳に、ど
こからともなく叔母たちのヒソヒソ声が聞こえてきた。
 「死なん、うちの息子は死なんと!」
 いつもはおとなしい母が、強い口調で叔母たちに抗う声
が、虚な私にもハッキリ聞き取れた。そしてその声は、七十五
年以上経った今でも、耳に残って離れない。
 高熱でうなされる私のそばで、ひたすら冷たい井戸水をた
らいに汲み、手ぬぐいを冷やしては額にあててくれた。母は
幾晩も寝ず看病をしてくれたのだ。その甲斐あって、九死に
一生を得た。私が小学校一年生のときだった。
 小さい頃はとかく病気がちだったが、一年生のときにはと
くに長期休みが多かった。一学期末、母が担任の先生から呼
ばれた。
 「この分だと、進級できんかもですね」
 母は、先生の心配の言葉に抵抗して、
 「先生、私が教えますけん、進級させてやってください!」
と必死に頼み込んだ。
 家業の酒屋は、母が実質上切り盛りしていた。酒の仕入れ、
商品の陳列や帳面つけ、角打ち(立ち飲み)の客の相手、そし
て父や私たちの洗濯やご飯の世話と、いつも時間に追われて
いた。そして、忙しい仕事の合間を縫って、母は寸暇を惜しん
で国語と算数を教えてくれた。女学校を出て多少学がある母
の教えは、愛情も混ざって、厳しいがよく頭に入った。おかげ
で、何とか落第せずに済んだ。
 進級の喜びも大きかったが、それ以上に、私にとっては母
との二人だけの時間が、数少ない、母に甘えられる楽しいひ
とときだった。そして、周囲が敵ばかりの母にとっても、心を
許せた安らぎの時間だったかもしれない。
 私、本多克也の故郷は、長崎県南高来郡山田村(現雲仙市吾
妻町)だ。そこで一九三七年、生まれた。
 山田村は、雲仙から有明海に向かって広がる平野で、私の
住む栗林地区は少し山手のほうになる。
 山田村を知る人は少ないが、長崎県が生んだ日本経済界の
傑物のひとり「旭化成工業のトップまでなった宮崎輝(かが
やき)」の生誕地と言えば、少しは関心を持ってもらえるかも
知れない。
 ところで、日本の著名な経済人の中で、長崎県ゆかりの人
物としては次の三人が代表格と言われている。日本精工社長
今里広記と日本興業銀行頭取中山素平と、そしてもうひとり
が宮崎輝だ。
 同郷の偉人宮崎輝さんは、後に詳しく触れるが、私の長い
人生の道程で、いつも心の中に居続けた。
 一九四三年頃から、私を親戚の茶園に養子に出す計画が父
たちの間で燻っていた。家計が厳しいので、次男をよそに出
そうという、所謂「口減らし」だ。
 母は、それにも必死に抵抗した。
 茶園は、栗林地区よりもずっと山のほうにあり、辺鄙なと
ころだった。井戸を掘っても水が出ず、雨水を溜めて飲み水
や風呂の水にしていた。電気も通じておらず、夜の明かりは
ランプだった。私も茶園に行ったときにはよくランプ磨きを
させられた。



2[山田村2]
 昭和二十年八月九日午前十一時二分、私たちが小学校の
夏休みで山の茶園にいるとき、急に辺りが真っ白になった。
 やがて、空の向こうに赤い雲が上がって、気のせいかこっ
ちに向かって迫ってくるように見えた。当時は何のことか
分からず、「布団かぶらんでよかやろか」くらいのやりとり
を叔母としていた。
 しばらくして情報が入ってき始めると、村の人たちが、「ピ
カドンばい」とか「すごからしかよ」と口々に噂するよう
になり、やがて原爆の凄惨な実態が明らかになった。
 母の猛反対もあり、私の養子計画は流れて、それに替わっ
て従兄弟が茶園を継いだ。もし私がなっていれば、今ごろ
茶園の草むしりをしているかも知れない。
 山田村の冬の訪れは早い。
 「克也、吉田さんちに配達してくれんね!」
 母の声が飛ぶ。
 私の高校時代の放課後の日課は、家業の手伝いだ。他の
生徒のように部活をしたり、友だちと遊んでいる暇はない。
授業が終わったらすぐに、楽しそうな生徒たちを尻目に、
島原鉄道の帰りの列車に急いだ。
 十一月も半ばを過ぎると、陽が陰った夕暮れ時には、栗
林地区はもう気温が十度近くになり、ビール箱を持つ手は
かじかんでくる。
 ビールはその頃は大瓶で、二十四本入りの木箱は学生に
とっては半端なく重い。落としてしまったら大変なことに
なるので、一箱ずつ慎重に自転車の荷台に積み上げ、三段
になると私は配達に向かった。配達用の自転車は古く、タ
イヤは硬くてクッションはない。
 最初の頃は慣れずにふらついたものだが、高三の頃には
すっかり慣れて、舗装していないガタガタ道を器用なハン
ドル捌きで運転できるようになった。
 それにしても、私は手伝いをしながらいつも腹立たしく
思っていた。
 「なぜ、俺と母ちゃんだけが働かんといかんと!?」
 兄は家に帰ってもすぐにどこかに遊びに行くし、父も昼
間家を空かすことが多い。戦前の金回りの良さを引きずっ
ていたためか、父はあまり労働に対する意欲が無いように
見えた。
 小さな酒屋は、ほとんど母の細腕と未成年の私の配達に
かかっていたのだ。
 ある日、母のいない時に祖母たちがしゃべっているのを
耳にした。
 「嫁に来たら女中といっしょたい、使わな損」
 日頃、祖母や叔母たちが母に強く当たることは私も感じ
ていたが、この言葉で、彼女たちの母に対するイジメをハッ
キリと認識した。
 それ以来、私は意識して母を庇おうとしたが、その度に
私に対しても冷たい目が向けられ、「このくそがきが」とけ
なされた。
 あるとき、母が味噌汁のダシに使った煮干しを佃煮にし
て食膳に出したら、食べた後、「こんなの食えん」と、叔母
が吐き捨てるように言いながら、空の器を母につき返した。
その光景が今でも鮮明に記憶に残っている。
 「俺の母ちゃんをなんでこんな目に合わせんといかんと」
と、私はひとり憤った。
 母の何がそんなに気に入らなかったのか未だに分からな
いが、当時は嫁の立場が低かったことに加えて、曲がった
ことが嫌いな母の正義感が皆の鼻についたのかも知れない。
母はイジメに堪えかねて、長崎市の実家に二、三度逃げて
帰ったこともあった。
 結局、母は四面楚歌で、身内には誰も味方がいなかった。
 私を除いては……。



3[先生]
 母は、身内からは冷たくあしらわれたが、地域の人たち
には好意的に見られ、尊敬もされていた。
 「あんたとこの母ちゃんは、ようがんばるし、良か人だも
んね」
 ついでに私も、「あんたも母ちゃんに似とるたい」と褒め
られることがあり、その時は嬉しかった。
 酒屋といえば、専売品を取り扱っており、一見裕福に見
えるが、内実は大違いだ。
 販売はつけが当たり前で、支払いは盆正月というのが多
かった。一方で、仕入れは現金なので、つなぎの資金が必
要になる。我が家は資金力がなく、かなりの借入もしてい
るようだった。そのせいか、皆がイラついて、そのとばっ
ちりを母が被っていた面もあるようだ。
 しかし、苦しい環境の中でも、母は弱音を吐くことはなく、
店を切り盛りし、朝は四時から起きて、私たちの食事や洗
濯の世話もして、歯を食いしばって耐えていた。
 そして、人には優しかった。
 ある日、顔がひどくただれた中年の客が入ってきた。角
打ちの客だ。角打ちとは、所謂「酒屋の立ち飲み」で、一
番安上がりな酒の飲み方だ。
 その客は、あまりに顔が醜いため誰からも相手にされず、
自分も人目を避けるようにして生活していた。
 店に入ってくる前に外から必ず中の様子を窺って、お客
が誰もいず母だけなのを確かめて入ってくる。五尺の枡酒
を美味しそうに飲むと、静かに帰って行く。
 私は子ども心にその人が怖かったが、母は平気で、その
人にも普通に接して、会話を交わし、お酒を出していた。
 そんな母がいつもよく口癖のように私に言っていた。
 「人様にはようせんばよ」
 その言葉は、終生私の心に刻まれている。
 水仙も私の心に残る心地よい思い出だ。
 母はよく、秋から冬になると、庭に咲いている水仙を花
瓶に挿して、私の机の上に置いてくれていた。日頃忙しく
て構ってやれないことのお詫びの気持ちだったのかも知れ
ないが、私には何よりのプレゼントだった。水仙は、今で
も私が一番好きな花だ。
 中学高校時代、私は先生にも恵まれた。
 とりわけ、一九五〇年からの山田中学校時代には、後に
たいへんお世話になる国語の宮崎轟(とどろき)先生に出
会えた。
 先生は、教え方がとても上手で、わかりやすく、私も国
語が好きになった。授業も楽しかったが、それだけではなく、
先生は私の家庭の事情も知って、それとなく私のことを気
にかけてくれた。
 当時は、戦後民主教育の初期であり、先生の存在や期待
は今よりもはるかに大きかった。単に教科を教えるだけで
はなく、子どもたちの物の考え方や将来の生き方にも影響
を与えた。
 高校は、一九五三年から三年間、諫早市にある諫早高校
だったが、化学の中野宅馬先生もまた素晴らしい教育者だっ
た。先生は、厳しくて頑固な反面、愉快な一面もあり、生
徒からは「アボガドロ」というあだ名で親しまれていた。
 ちなみに、アボガドロとは、イタリア出身の有名な化学
者の名前だ。
 「本多君は、他の勉強はいっちょんせんとに、化学は頑張
るな!」
 先生から褒められておだてられたことで、「自分はもしか
したら化学者になれるのかな」と、子ども心に短絡的な思
いをしたものだ。



4[東京へ]
 褒められることは、誰でも嬉しい。そのことで、勉強や
スポーツや仕事がぐーんと伸びることも多い。
 私も、今思えば、中野先生の「本多君は化学ができるな」
という一言が、人生の方向を決めるのに決定的な影響を与
えたように思う。
 いよいよ卒業が間近に迫ってきた一九五五年、高校三年
生の二学期末、私は父に、「東京に行って勉強したい」と、
かねてから考えていたことを思い切って切り出したが、「何
処にそげん銭があるか!働き口は地元で探せ」と父に一喝
され、進学にはまったく聞く耳を持ってもらえなかった。
 私は、酒屋の次男坊で、昔でいえば「部屋住み」だ。中
高時代、人一倍家業を手伝ってきたが、長男に何かがなけ
れば、家に残っても家業は継げない。かと言って、地元で
職を探しても、当時はほとんどない状態だった。
 思い余って私は、家出を覚悟で、東京に行く決心をした。
 一番お世話になった宮崎轟先生にそのことをご報告に上
がると、先生は私の事情と気持ちを察して、「頑張りなさい」
と励ましてくれた。そして、しばらく待っていると、一通
の手紙を私に差し出した。
 「もし何かあったら弟を尋ねてごらん。そして、これを見
せなさい」
 宮崎轟先生は他でもない、旭化成社長(当時常務取締役)
宮崎輝さんのお兄さんだ。
 私は折々に、「地元出身の偉い人」として宮崎輝さんの名
前を耳にはしていたが、まだどれほどの偉大さなのか肌身
では分かっていなかった。
 もちろん、手紙の中身も知るよしもなかったが、先生の
厳粛な雰囲気からして何か重要なものだという直感がして、
ありがたく頂いて帰った。
 季節はまだ二月半ば過ぎで、肌寒く、好きな桜も咲いて
いなかった。
 母の悲しそうな顔を背中に感じながら、見送る人も無く、
長崎駅発東京行き急行列車「雲仙号」で東京へ向かった。
当時はまだ蒸気機関車で、長崎東京間は24時間を要した。
 下関を過ぎたころから辺りはだんだんと暗闇になり、や
がて窓の外は何も見えなくなり、踏切のチンチンという寂
しげな音だけが時折聞こえた。
 〈東京へ出立〉
 片道切符での東京行きは、無謀だったが、私にできる精
一杯のことだった。
 夜行列車の車窓から見る景色は、目まぐるしく移り変わ
り、私の心に期待と不安が交錯した。夜遠くに見える町々
の灯りは、言い知れぬ寂寞感を誘った。
 そして、時折鳴る汽笛は、別れる人の声を代弁するかの
ように、時に鋭く、時に長く、未知の土地の空に響いた。
 「もう長崎には帰れないなぁ」
 24時間かけて着いた東京駅は、車窓から見ても人でごっ
た返していた。列車からホームへ踏み出す第一歩は、長旅
のせいか、それとも緊張のせいか、足が地に着いていなかっ
た。
 そして、ひとたび街に足を踏み入れると、東京は私の想
像を遥かに絶する大都会だった。林立する建物、車の喧騒、
行き交う人、人、人……。
 夢を追いかけて東京に来る若者は多い。しかし、その夢
を掴み取れる者はごく僅かだ。多くは、一カ月が経ち、一
年が過ぎ、三年もすれば、夢がしぼみ、諦めが芽生え、や
がて現実の渦の中に飲み込まれてゆく。
 しかし私は、弱音を吐いてはいられない。上京の目的で
ある横浜国立大学の受験が待っていたのだ。



5[手紙]
 東京に着いて先ず落ち着いた先は、横浜国立大学(横浜
国大)近くの安旅館だった。予め大学の紹介で予約してい
たのだ。
 そこは、まるで横浜国大御用達のような旅館で、受験シー
ズンになると横浜国大受験生ばかりになる。
 旅館には共同スペースがあり、そこで受験日までの二日
間勉強したが、周囲の受験生は皆、会話の内容が高度で、
顔つきまでも頭が良さそうで、時間が経つにつれて自分の
考えの甘さがひしひしと感じられてきた。いわば戦わずし
て負けたような感じだ。
 案の定、受験は結果発表を待たずに失敗に終わった。家
出同然で出てきた私には、この後のあてなどなかった。
 東京は非情な街だ。ど田舎から出てきた一介の受験の落
ちこぼれに温情をかける人などいない。それどころか、隙
があれば牙を剥く者は星の数ほどいる。
 もし私がその怖さを知っていれば、足がすくみ、気持ち
が萎え、たちまち固まってしまっただろう。
 しかし、私は状況を理解するにはあまりにも若かったし、
無知だった。そして、生来、物事をくよくよ考えない性分
でもあった。
 私は、すぐに「手紙」のことを実行することとした。
 つまり、宮崎轟先生から田舎を出る時に言われた「何か
困ったことがあったらこれを持って訪ねて行きなさい」と
いう言葉と、手渡された一通の手紙のことだ。
 当時、前もって電話をするなどの知恵は思いつくはずも
なく、いきなり宮崎輝さんを訪ねて行った。
 どこをどうやって行ったのか覚えていないが、予め調べ
た有楽町にある旭化成本社ビルにたどり着いた。
 恐る恐る受付で、「宮崎輝様にお会いしたいのですが」と
告げると、しばらくして秘書課の課長さんが出てきて、哀
れみの目で私を見ながら、切り出した。
 「宮崎様はどなたにもお会いにならないよ」
 後で分かったことだが、宮崎輝さんの名前は地元では知
れ渡っていて、地元からたくさんの人が折々にお願い事な
どで訪ねて行ったりしていたのだ。また、地元だけではなく、
仕事の関係でたくさんの方々がお願い事をしに宮崎輝さん
を尋ねて会社を訪問していたのだ。しかし、ほとんどは秘
書課で止められて、会えることは極めて稀だった。
 私は、秘書課長さんから断られた直後に、すかさず手紙
を差し出した。
 「これを持ってきたのですが」
 課長さんは一瞬ためらったが、達筆で封筒の表に「宮崎
輝殿」、裏に「宮崎轟」と書かれているのを見ると、「少し待っ
ていてください」と、奥へ引っ込んでいった。
 しばらくして戻ってくると、「お会いになるそうだよ」と、
声も表情もさっきより和やかになって私に伝えてくれた。
そして、「会う前に食事を済ませるように」と、私に食事券
を手渡してくれた。
 今思えば、食事時にお願い事で相手を訪問するなどはマ
ナー違反の典型だが、当時はそんなことは微塵もわからな
かった。
 大きな社員食堂の受付で食券を見せると、一般席ではな
く豪華な役員用の部屋に通された。
 この時である、人生で初めて、「偉い人になるとこんな風
になれるのか」と身をもって知ったのは。
 そして、お腹を空かした私は、出された料理を夢中でた
いらげた。



6[宮崎輝様]
 食事が終わるのを見計らって、秘書課長が入ってきた。
 「それではどうぞ、まいりましょう」
 上階の立派な部屋に通されると、そこには優しそうだが
きちんとした身なりの、見るからに地位が高そうな方が待っ
ていた。それが、他でもない宮崎輝(かがやき)さんだった。
 「どうぞ、座りなさい」
 言われるままにふかふかのソファに座ると、次々と質問
が飛んできた。
 「山田村から来たのか」
 「はい」
 「受験はダメだったのか」
 「はい」
 「それじゃあ、アルバイトしなきゃ食えないだろう」
 「はい」
 「住むところはあるのか」
 「いいえ」
 問われるままに、緊張しながら小さな声で答えた。
 ひと通り質問が終わると、宮崎さんは秘書に簡潔に指示
を出した。
 「東大宇宙研究所に連絡して、仕事をあてがうように」
 「住むところも、近くで下宿を探してあげなさい」
 東大宇宙研究所の仕事は、夜間18時から朝の6時までの
データ計測のアルバイトだった。当時、旭化成工業と東大
宇宙研究所は関係が深かったようだ。
 こうして、宿無し寸前の私は、住むところも確保できた
うえに、仕事までいただけた。
 それにしても、たった一通の手紙がこんなにも人の運命
を左右するものだろうか?!
 まだその頃の私には世の中の仕組みが十分理解できてい
なかった。
 しかし、後に分かったことは、一通の手紙の背景には、
故郷の宮崎轟先生の生徒にかける深い思いやりと、弟宮崎
輝さんの兄や故郷を思う気持ちと、そして少しだが、私の
祖父と宮崎家との関わりなど、複合的な要因が重なり合っ
ていたということだ。
 事態が落ち着いてひと息ついたとき、母がよく言ってい
た言葉が鮮明に思い出された。
 「人様にはようせんばよ」
 その言葉は、その後終生肌身を離れない言葉になった。
 一方で、事がうまく運んだ裏には、間違いなく「運」もあっ
た。
 もし、宮崎さんを訪ねて行った時不在だったらどうなっ
ただろうか?すごすごと旭化成工業の本社を引き上げて、
仕事もなく、住むところもままならず、気力も失せて東京
砂漠を彷徨う羽目になっていたかも知れない。
 秘書の方もその時言っていた。「あんたは運の良い方だね」
 ところで、一九五五年頃から日本の繊維産業は年々力を
つけて、アメリカの繊維業界からシェアをどんどん奪って
いった。
 そのため、日米間の摩擦が始まり、宮崎輝さんも日米間
の調整のために度々海外に出張していたようだ。
 ちなみに、日米繊維戦争は戦後の日米間に起こった最初
の貿易摩擦で、これを端緒として、この後数次にわたって
自動車などいろいろな産業について、日米貿易摩擦が頻発
した。



7[大学入学]
 仕事は、駒場の東大宇宙研究所のデータ計測係だったが、
夜のアルバイトなので収入は少なく、食べるのもままなら
なかった。
 母からは、時々石鹸などの日用品と一緒に田舎の食べ物
が送られてきて、それで数日を食いつないだ。荷物の中に
は必ず手紙が添えられていて、私にとってはそれが唯一の
慰めと励ましだった。夜、ひと息つくと何度も読み返した。
 長崎ではこの年(昭和三二年)、諫早大水害が起き、母か
らの報告で驚くとともに、友人たちを案じた。
 生活は苦しかったが、大学進学の思いは捨てきれず、仕
事の合間に自分に合う大学を探した。希望の専攻科目は
やはりあくまでも化学だった。その日暮しの生活の中でも、
心のどこかに中野先生の「本多君は化学ができるな」とい
う言葉が残っていたのだ。
 そんなある日、中央大学が目にとまった。待望の化学専
門の科があり、学費も安い。
 「これを逃しては、自分が浮かばれる道はない」
 そんな悲壮な思いで、必死に受験勉強に励んだ。その甲
斐があって、一九五八年四月、無事中央大学工学部工業化
学科に合格した。二十一歳のときだ。
 当時中央大学は、本部や法律関係などの文化系がお茶の
水にあり、私が通う理工系は水道橋にあった。
 新調した学生服を着て臨んだ入学式では、周りよりもや
や年のいった一年生で、気恥ずかしかったが、「これで自分
もやっと社会のレールに乗ることができた」と胸を膨らませた。
 憧れの大学は最初は楽しかった。キャンパスに吹く風は
心地よく、自分にはこれから明るい将来が待っているよう
な気がした。
 しかし、厳しい経済状態は、まもなくそんな甘い夢を打
ち砕いた。
 東大宇宙研究所の夜間アルバイトではどんなに節約して
も収入が足りず、食費と学費を稼ぐためにやむを得ずやめ
て、手当たり次第に短期アルバイトをしながら食いつない
だ。そして、夏休みには、長期アルバイトにもはまった。
 最も稼ぎがよいバイトは土方で、一日の日当が二百五十
円だった。その頃、銭湯が十円、ラーメンが三十円の時代だ。
 JR中央線高尾駅近くで大型工事が行われており、その
工事の飯場に住み込みで入ったときには、二カ月近くどこ
へも遊びに出ず、もらった給料を全部、学費や生活費のた
めに貯め込んだ。
 飯場の人たちとはすっかり馴染になり、よくおごっても
らったり、励まされた。
 「学生さん、将来日本を背負って立つのだから、頑張って
くれよ」
 彼らは一見強面で粗雑なようだが、懐に入っていくと実
に人情が厚く、気遣いもしてくれた。
 人情と言えば、その頃下宿への帰り道の商店街で、惣菜
屋さんからよく、「おい、学生さん。コロッケ食べなよ」と
声をかけてもらった。私の風采が見るからにしょぼく、貧
乏学生丸出しだったからだろう。そのコロッケの味は未だ
に忘れられない。
 私は、この時期、彼らの人情に助けられ、励まされた。
そしてまた、母の言葉が浮かんできた。
 「人様にはようせんばよ」



8[挫折と帰郷]
 一九五八年(昭和三三年)には東京タワーが完成し、一
九五九年には皇太子明仁さま(現上皇さま)がご成婚と、
この時代は祝賀ムードに湧いていた。
 経済情勢も、一九五〇年から始まった朝鮮戦争による特
需もあり、復興めざましく、ようやく戦後の混乱期を抜け
出して、高度経済成長時代へと突入した。そして、経済白
書にも書かれた「もはや戦後ではない」が、流行語にもなっ
た。
 国民にもエネルギーがみなぎり、誰もが今より良い明日
を信じて働き、「三種の神器」と言われるテレビ、冷蔵庫、
洗濯機を、競うように買い求めた。
 しかし、私は金欠病に喘いでいた。
 大学に入ってからは、少しでも家賃の負担を抑えるため
に、駒場にある大学の男子寮に移った。
 その頃は学生の間でダンスパーティーが流行っていて、
男子寮に女学生がやって来てダンスパーティーが開かれる
こともあったが、私には無縁のものだった。私は、それを
横目で見ながらバイトに明け暮れる日々だった。
 生活費のほかに学費も稼がなければならず、羨ましくは
あったが、ダンスパーティーどころではなかったのだ。
 ただひとつの楽しみは、寮の部屋で流行歌を口ずさむこ
とだった。東海林太郎の「赤城の子守唄」などをよく歌った。
 戦後すぐに、日本の街角には流行歌が流れ始めた。戦後
の生活の苦しさの中で、国民は歌に癒しを求めたのだ。私も、
いつの頃からか、歌が趣味になっていた。
 質屋通いもした。大学の裏口にある質屋ではおじさんと
馴染みになって、「お金に困ったら何でも持って来いよ」と
言ってもらった。
 実際、他の質屋では受けてもらえないような服や布団ま
で持ち込んだこともあった。
 石川啄木の歌に、「働けどはたらけどなお我が暮らし楽に
ならざりぢっと手を見る」というのがあるが、まさにそん
な状態だった。
 しかし、実は私はそれほど状況を深刻には考えていなかっ
た。「じっと手を見て」恨むわけでもなく、諦めるわけでも
なく、与えられた境遇を運命として甘受して、なんとか局
面を打開しようと前向きにもがいた。
 それができたのは多分、化学が好きで、自分の道だと信
じていたからだろう。それと、物事をあまりくよくよ考え
ない私の性分があったからだろう。
 とは言え、身体はきつかった。大学二年になると目に見
えて体重が減り、疲れも残るようになり、ついに二年生の
終わり、栄養失調で倒れて入院した。
 「これ以上頑張ったら、身体がダメになる。身体がやられ
たら、元も子もない」
 私は東京に来て以来、自分には身体だけが資本で、それ
しかないことを思い知らされていたので、学業へのやる気
は十分残っていたが、一九六〇年三月、思い切って大学中
退を決心した。
 大学事務局に退学届を持って行くと、過去の成績なども
見ながら幹部らしい方が、
 「きみ、もったいないね」と言って、引き止めてくれた。
 その気持ちは嬉しかったが、「身体が持ちませんので」と
言って、一礼して大学の事務局を後にした。
 中退の残念さは残ったが、しかし二年間の勉強期間は無
駄ではなかった。自分なりに、与えられた時間と環境の中
で精一杯頑張ったし、化学の基礎は詰め込めたと思う。
 「いったん、田舎に帰ろう」
 東京に来て足かけ五年、片時も忘れることはない故郷長
崎だったが、それはいつも遠くにあった。今、急に目の前
に故郷の色々なことが浮かんできた。



9[再起と運命の出会い]
 一九六〇年(昭和三五年)四月、上京以来初めて長崎へ
帰郷した。
 しかし、五年ぶりだというのに、手土産はほとんど持たず、
土産話もない、不本意な帰郷だった。
 大手を振って歩けない無念さは、石川啄木の「ふるさと
の訛なつかし停車場の人混みの中にそを聴きにゆく」の心
境だった。帰郷中の母の心配もひしひしと伝わってきた。
 東海道本線は一九五六年に電化されて、日本の動脈とし
てますます活気を帯びていたが、私には孤独な長い旅だっ
た。
 故郷山田村では、傷心を癒す間もなく、帰ってきて早々
に地元で働き口を探した。
 しかし、当時はまだ長崎は雇用がほとんどない状態で、
無駄な日にちが過ぎて行くばかりだった。
 そんなある日、名古屋の親戚から「名古屋の槌屋(つちや)
という会社が人を募集している」という情報が入った。あ
らかじめ、親戚やあらゆるつてに仕事の情報をくれるよう
にお願いしていたのだ。
 私は、藁にもすがるような思いで、面接を受けるために
名古屋へと急いだ。
 面接を受けた会社は、株式会社槌屋といって、自動車関
連を中心とする塗料関係を主に取り扱う会社で、アメリカ
の大手化学メーカーデュポン社の代理店もしていた。(※
デュポン社は、世界で四番目に大きい化学会社で、ライター
のデュポンとは別)
 面接を主導した方は、幹部社員の岡野良一さんといった。
豪快な方で、既成観念に捉われずに物事を仕事本位で考え
るタイプの方だった。
 短い面接のやり取りの後、岡野さんが面接を締めくくった。
 「よし、採用だ」
 その一言で採用が決まった。いや、その時に私の人生が
決まったと言っても、過言ではない。一九六〇年の五月だっ
た。
 私は大学時代、アルバイトは山ほどしたが、正式に会社
に勤めるのは今回が初めてだった。その初めての仕事が、
私がずっと望んでいた化学関係の仕事だった。
 そしてこの時以来、八十六歳になる今日まで、化学関係
ひと筋で歩いて行くことになった。
 もしラッキーにも地元長崎で仕事が見つかっていたら、
名古屋の槌屋に行くこともなかったし、岡野さんと会うこ
ともなかった。化学とは関係のない道を歩んだかも知れな
い。人生、何が味方するかわからないものだ。
 翌日出社すると、早くも岡野さんは仕事モード全開で、
話しかけてきた。
 「二年間工学部にいたんだから、基礎はできているだろう」
 「バイト尽くめでしたから、基礎ができているか分かりま
せん」と私が自信なげに答えると、
 「まぁいいだろう。俺が仕込んでやる。勉強しろ」と、背
中を押してくれた。
 ところで、日本の戦後の自動車産業だが、一九五〇年以
前は連合国軍GHQにより乗用車の生産が禁止されていて、
細々とトラックなどが作られているだけだった。しかし、
一九五〇年の朝鮮戦争をきっかけにして、ようやく乗用車
の生産が認められるようになり、トヨタ、日産をはじめ自
動車業界は一気に活気づいていた。



10[開発1]
 私が槌屋に入社したのは一九六〇年だった。
 この頃の日本は、高度経済成長期に入り、活気に満ちて
いた。一方で、日米安保条約改定の年にあたり、各地で学
生運動が燃え盛り、世上は騒然としていた。社会党の浅沼
委員長が右翼の暴漢に刺殺されたのもこの年だ。
 しかし、私にはどれも無縁のことだった。やっと得られ
た仕事に一日も早く慣れて、戦力として認められることだ
けが私の頭を占めていた。
 その頃岡野さんたちが取り組んでいたのは、自動車関連
の新製品の開発だった。
 この頃日本は、自動車産業の黎明期で、質量ともに飛躍
的な伸びを見せていた。
 入社してしばらく経ったある日、出社すると岡野さんが、
 「本多、車のテールランプの塗装を研究しろ」と、いきな
り私に課題を言ってきた。
 自動車の後部にはテールランプがあるが、それが金属の
ようだと高級感が出るし、反対にプラスチックのままだと、
安っぽく見える。
 その当時はまだ、テールランプはプラスチックのままだっ
た。
 私は、突然でもあり、面食らって言葉を返した。
 「プラスチックに金属メッキは無理ではないですか」
 「それをやれ!誰にでもできるものはいらない」
 「ひとりででしょうか?」
 「当たり前だろう」
 「何から手をつければよいでしょうか?」
 「先ずベースを作れ」
 しばらく、二人の緊張したやり取りが続いた。
 常識的には、プラスチックに金属メッキをすることは、
プラスチックに導電性がないので無理だ。(導電性…電気を
通す性質)それを、岡野さんはできるようにしろと言う。
 戸惑っている私に岡野さんはだめ押しした。
 「図書館でも本屋でも行って、自分で勉強しろ」
 岡野さんは、仕事には厳しく、妥協を許さない人だった。
言葉も、歯に衣を着せなかった。しかし、言っていること
は筋が通っているし、内容は相手のためになる温かさを含
んでいた。
 岡野さんは、敢えて突き放したような言い方をしながら、
実は私の自発心を引き出そうとしたのだ。
 私は入社してまもなく岡野さんのそんな人柄を感じ取っ
ていたので、今回のぶっきら棒な指示を、「岡野さんが私に
ミッションを与えてくれた」と受け取り、嬉しくなって、
真剣に課題に取り組もうとした。
 岡野さんとしても多分、私がひとつことを決めたらそれ
を諦めないという性格だということを見抜いて、敢えてハー
ドルの高い課題を私に与えたのかも知れない。
 このミッションを通じて、「研究とは何ぞや」ということ
を岡野さんからしっかり教えてもらった。そして、結果的
にはこのミッションが私の「人生の転機」になった。
 その後、必死に自分でもあれこれ考えたり、岡野さんや
周囲にもアドバイスをもらいながら、研究を続けた。
 もちろん、研究だけでは飯は食えないので、通常の仕事
と掛け持ちだった。そのため、勤務時間は8時間をはるか
に超えて、毎日残業の連続だった。

10_2 【インタビュー】

3月5日で設立50周年を迎える本多産業、長崎新聞で
2月から「布施の心」を連載している社長・本多克也氏に、
お話を伺ってきました。

Q1 今回、自分史の連載を始めたきっかけは?

 友人である、ジスコ不動産代表取締役の徳永耕一さん
に「本多さんの経験を語ってみらんですか」と勧められ
たことがきっかけです。人生はいい思い出ばかりではな
く、どうしようか悩みましたが、創立50周年の節目とい
うこともあり、決めました。
 徳永さんが聞き書きを担当してくださるので、いつも
リラックスして話すことができています。校正はうちの
社員が手伝ってくれています。ありかたいですね。

Q2 どんな方に読んでほしいでしょうか?

 特にないのですが、強いて言えば、「自分なんて大し
たことない。力もなく、学歴もない」など引け目を感じ
ている人にとって、何かしらの発奮材料になればと思い
ます。
 中学時代の恩師・宮崎轟氏、その弟で旭化成社長の宮
崎輝氏、会社員時代の先輩・岡野良一氏、そして幼少期
から支えてくれた母。今の自分があるのは、多くの出会
いがあったからこそ。私の経験が、これから夢に向かっ
て頑張ろうという人の励みになればうれしいです。

Q3 連載してよかったことや、反響は?

 自分の苦労話は家族にも積極的には打ち明けていませ
んでしたので、娘たちや、年の離れた妹から「知らない
ことばかり。すごい」「こんな大変だったの」と驚かれ
ました。家族に知ってもらう機会となり、感謝していま
す。
 与えられた境遇に順応しながら、逃げずに、気が付け
ばずっと「化学」という自分が好きなことをやってきま
した。社員にはいつも「考えろ。既にあることをやるな。
できないことはない」と伝えています。私自身も、いつ
までも挑戦する気持ちを持ち続けたいです。 

11[自動車産業の発展と私の仕事]
 一九六〇年、私は遅ればせながら人生で初めて正式に就
職した。二十三歳だった。
 仕事が面白くもあり、また、遅れを取り戻したいとの思
いもあり、仕事と研究に没頭した。周りを見る余裕はなかっ
た。
 しかし、振り返ってみれば、この頃の日本は経済も自動
車産業も花ざかりの時代だった。
 一九五〇年に朝鮮戦争が始まり、一九五〇年代半ばから、日
本は目覚ましい経済発展を遂げ、高度経済成長期に入った。
「もはや戦後ではない」時代に突入したのだ。
 自動車産業も、一九五〇年にGHQが乗用車生産を認め
たとたん、待ちかねていたように活発に動き出し、政府の
最大限の支援のもと、各メーカーが開発・販売競争を繰り
広げ、モータリゼーションは急速に進展していった。
 一九六〇年(昭和三五年)には、池田勇人総理大臣が「所
得倍増計画」を高らかに打ち出し、経済活動に拍車がかかっ
た。
 そして、一九六四年(昭和三九年)には東京オリンピック、
同年に東海道新幹線開通、一九七〇年(昭和四五年)には
大阪万博もあり、日本経済はさらなる発展を遂げ、ついに
一九六八年(昭和四三年)、日本はGNP世界第二位となっ
た。
 国民は競うようにクーラーやカラーテレビなど高級消費
財を買い求め、自家用車を持つこともステータスになった。
豪華で大きい車、コンパクトで実用的な車、速く走る車、
デザインがかっこいい車など、さまざまなタイプの車が現
れて、まさに百花繚乱の状態だった。
 クラウン、スバル360、カローラ、フェアレディなど
が登場したのもこの時期だ。
 自動車メーカー各社は、競争に勝ち残るべく、海外メー
カーとの提携も進める一方、技術開発や販売競争にしのぎ
を削り、中でも、トヨタと日産は熾烈な開発販売競争を繰
り広げた。
 私たちも、その大きなうねりの一端にいて、より良い自
動車装備品の開発に日夜取り組んでいた。
 私の課題のプラスチックへの金属メッキは、具体的には
日産グロリアのテールランプカバーということが、しばら
くして分かった。
 メッキの研究は、車の軽量化にも深く関係した。
 金属は、鉄が重くてアルミは軽い。しかし、車をより速く、
効率よく走らせるためには、アルミより軽い素材が要求さ
れる。
 それを満たすのは金属ではなくプラスチックだが、プラ
スチック丸出しでは、高価な自動車が安っぽく見える。
 そこで要求されるのが、プラスチックへの金属メッキな
のだ。
 岡野さんは、私にくどいくらい「テーマを決めたら、諦
めずに粘り強く取り組め。結果は必ず出る」と叱咤激励し
てくれた。
 その言葉を私は半信半疑で聞きながら、ミッションに取
りかかった。しかし、ミッションは、想像以上に難しく、
進めば進むほど、先が見えなくなった。
 「この霧が晴れることがあるのだろうか?それはいつだろ
うか?」
 自分に問うてみた。



12[開発2]
 最初のミッションは、日産グロリアの「テールランプの
メッキ」だった。
 当時、グロリアは生産数が少なく、月間五百台程度だった。
そのこともあり、岡野さんは経験の少ない私にこのミッショ
ンを与えたのかも知れない。
 日常、私は他の仕事も並行して行なっていた。我が社は
米デュポン社の代理店で塗料が主体だったが、トヨタなど
から塗料の新製品の注文を受けて、デュポン社の塗料をブ
レンドして光沢を出したり、アルミを焼き付けて金属感を
出したりしていた。私はそれを手伝っていた。
 一方、私のメインの仕事の「テールランプのメッキ」は、
日々、月々、ミッション達成のために全力で研究と試作を
重ねたが、しかし、進展は遅々として得られなかった。
 「俺って、なんでこんなにヘマなんだろう」と悩み嘆く日
も多かった。
 そんな時、岡野さんは決して私を叱ることはなく、逆に、
行き詰まった私を見て、「どうだ、調子は」と気遣ってくれ
たり、貴重なアドバイスをくれた。この励ましが、どんな
に私を勇気づけてくれたことだろう。
 ミッションに取り組んで三年が経った頃、ようやく製品
は完成に近づいてきた。
 今度は、試作品を、注文主の小糸製作所に承認してもら
わなければいけない。最終納入先は日産だが、当社の直接
の注文主は小糸製作所だった。
 試作品は、貴重なものだし、プラスチック製で軽かった
ので、託送せずに自分の手で持って行くことにした。その
ほうが早いし、確実だ。
 名古屋から新幹線の一番列車に乗り、小糸製作所のある
沼津まで、大事に試作品を抱えて運んだ。
 当時は東海道新幹線が開通(一九六四年)したばかりで、
日本初の新幹線は国民の憧れの乗り物だった。揺れが少な
く、シートは真新しく、快適だったが、大事な試作品を抱
えている私にはそれを味わう余裕はなかった。
 小糸製作所の沼津工場で試作品をチェックしてもらい、
指摘をうけた箇所を修正してはまた持ち込むという繰り返
しが続いた。
 出張のときの朝飯は、小糸製作所の門が開くまでの待ち
時間を利用して、よく小糸製作所の近くの定食屋で食べた。
 余談だが、あるときその店で食べた麦とろ飯に当たって、
ひどい下痢に見舞われた。多分、徹夜の連続で、体力や抵
抗力が弱っていたからだろう。以来私は、好物だったとろ
ろが食べられなくなった。
 ところで、自動車は多くの部品でできている。その数は
三万点とも言われている。そして、それら部品を製造供給
するメーカーの数も夥しい。
 デンソー、アイシン、日本電産、日本精工など、名だた
る大手企業が名を連ねる。
 ちなみに、日本精工の今里広記は、長崎県波佐見町出身だ。
一九四八年から実に三十四年間も日本精工の社長及び会長
を勤めた名経営者で、長崎県が誇る著名な経済人「三傑」
のひとりと言われている。
 あとの二人は、私の恩人でもある雲仙市出身の旭化成の
宮崎輝さんと、みずほ銀行の前身の日本興業銀行の中山素
平だ。



13[メッキ成功、日産プリンス]
 多くの自動車部品メーカーの中にあって、小糸製作所は、
一般にはあまり知られていないが、当時も今も、自動車ラ
ンプではトップメーカーだ。
 その小糸製作所に製品が採用されれば、当社にとっては
大きな成果になる。それで、私は歯を食いしばって、日夜、「プ
ラスチック製のテールランプのメッキ」というミッションの成功を
追い求めた。
 その結果、一九六四年、ついに試作品が合格し、日産プ
リンスへの採用が決まった!人生初めてのミッションの成
功だったが、実に、取り組んでから四年の歳月が流れていた。
 この年、ちょうど東海道新幹線が開通するとともに、東
京オリンピックが開催され、国内は興奮と歓喜に沸き立っ
ていたが、私の心も晴れがましかった。
 成功まで時間はかかり過ぎたが、プラスチックへの金属
メッキは画期的なことだったので、会社や関係先からは高
い評価をいただいた。そして、誰よりも岡野さんから「よ
く頑張ったな」と心から褒めていただいた。
 この時、長年の苦労が報われた喜びが身体の芯から湧い
てきて、今までの苦労はどこかへ吹き飛んだ。また、「研究
とはなんぞや」ということを、ひしひしと実感することが
できた。
 「石の上にも三年」と言うが、確かに三年という歳月は、
物事を見極めたり、熟成させるのに必要な期間のようだ。
私の場合は、「石の上に四年」だったが。
 一方、今回の研究によって自分の能力や性質を知った私
は、「これを機会に、自分は『継続』を徹底しよう!」と固
く心に決めた。「継続は力なり」の格言もあるとおり。
 岡野さんは、一貫してこれらのことを私に教えようとし
ていたに違いない。岡野さんはまさしく、私の「仕事の師」
であり、「人生の恩人」のひとりである。
 考えてみれば、私を化学の道に導いてくれた諫早高校の
中野先生や、上京後の身を案じて自分の弟の宮崎輝さんに
紹介状を書いてくれた山田中学校の宮崎轟先生や、今回の
岡野さんなど「救世主」のような方々が、これまで私の人
生の道程で折々に私の前に現れた。
 これは、もちろん運の良さもあるが、一方で、人を信じ
てついて行こうという気持ちや、力はないながらも粘り強
く物事に取り組もうとする気持ちが私に強くあることを、
これらの方々が見抜いていたからかも知れない。
 後に私は、ある人の勧めで仏教の真言宗に帰依して得度
したが、人生の道程でいつも、「感謝」の気持ちと「求道」
の思いを胸に秘めてきた。
 この年一九六四年四月、大きなミッションが一段落した
のを見計らって、私はかねて交際していた妻迪子と結婚し、
ささやかな結婚式を槌屋の社長の媒酌で挙げた。
 交際期間中、仕事にかまけて何ひとつ満足なことをして
やれなかったが、迪子は私を信じてついてきてくれた。
 そして、苦労をかけながら五十八年間、今日まで人生を
共に歩いてきた。



14[転職とテフロンとの出会い]
 メッキの成功は、一躍業界の注目を浴びた。
 それほど、「テールランプのプラスチックカバーへの無電
解メッキ」は、当時自動車業界では画期的なことだったのだ。
おそらく、世界初でもあった。
 いくつかの会社から私に熱いオファーの視線が注がれは
じめた。中でも、日本ダッジファイバーズ(株)は、新しく
できた会社で、技術者を嘱望していた。
 先に同社へ移っていた同僚の中村弘氏が、度々私に誘い
をかけてくれたり、同社の江下工場長が槌屋(株)を訪れて、
岡野さんに私の移籍を熱心に口説いたりして、活発なヘッ
ドハンティングの動きが始まった。
 これらの動きに対してどうしてよいか判断がつかず、岡
野さんに相談したところ、「それもありかな」と反対ではな
い感触だった。
 多分、岡野さんとしては、我が子のように手塩にかけた
私を外に出すことは、本当は寂しいに違いない。しかし一
方で、私の将来を考えたとき、いろいろな経験をさせるの
もありだと思ったのだろう。
 数ヶ月後、岡野さんが、「本多、ダッジに移ってもいいぞ」
とオーケーの言葉をくれたとき、私は直ちに転職を決断し
た。仲間の熱心な誘いに加えて、岡野さんの親心の決断に
触れたとき、私は「違うステージに移って、必ずこの方々
の期待に応えよう」と決心した。一九六五年十二月、二十
八歳のときだった。
 「人生意気に感ず」という言葉があるが、私も事に当たっ
て、いろいろな計算や打算よりも、人との関係や心意気に
動かされるタイプだった。
 岡野さんは、賛成の言葉と同時に、「これからはテフロン
の時代になるぞ。その中でも、フローグラス製品を担当さ
せてもらえ」とのアドバイスもくれた。
 ※フローグラスとは、ガラス織布にテフロンを塗布した
シート
 これは、今思い返せば、私のその後の人生を左右する重
要なアドバイスだった。
 テフロンについては、すでに槌屋で少しかじって、多少
の知識はあった。非常に高価なものだということも知って
いた。当時、テフロン一グラム一万円もしていた。しかし、
まだその素晴らしさについて十分な知識は持ち合わせてい
なかった。
 考えてみれば、私が入った「日本ダッジファイバーズ」は、
親会社が「中興工業」といって、炭鉱関連の会社である。
 炭鉱業界では通常、石炭を「一山いくら」で取り引きし
ているわけだが、子会社の日本ダッジファイバーズは「一
グラム何万円」の世界で、そのコントラストがおかしかった。
 日本ダッジファイバーズでは、岡野さんのアドバイスに
従って、フローグラス製品の研究を担当させてもらった。
 「テフロン」という名前は、「テフロン加工の鍋」などで
一般にも広く知られているが、フッ素樹脂の一種で、デュ
ポン社の商品名だ。最初は、アメリカのNASAが宇宙開
発用として開発したと聞く。
 テフロンの性質としては、熱に強い、物にくっつかない、
薬品に強い、UVに強い、無味無臭などなどだが、これほど
多くの優れた特性を持っている樹脂は、今でも他に見当た
らない。
 私は、この後の人生、「テフロン」に魅せられて生きてい
くことになる。



15[横浜へ]
 日本ダッジファイバーズで働き始めた一九六五年から数
年間、私は研究に没頭する日々で、世の中の動きに疎かった。
 しかしこの頃、世の中は目まぐるしく動いていた。一九
六五年米国がベトナム戦争に参戦、一九六六年日本の人口
1億人突破、一九六九年アポロ月面着陸、一九七〇年大阪
万博などなど。万博の太陽の塔は、日本の明るい未来を高
らかに宣言しているように見えた。
 世界を熱狂の渦に巻き込んだビートルズも、この頃来日
した。当時、「レットイットビー」、「ヘイジュード」などビー
トルズの曲を聞かない日はないくらいだった。ビートルズ
以外の洋楽もこの頃盛んに歌われて、今それらは「オール
ディーズ」と呼ばれている。
 私も歌が好きで、巷で流れてくる歌謡曲によく耳を傾け
た。歌える曲はわずかだったが、歌はいつも私を励まして
くれた。
 経済は「高度成長期」に入り、各分野が大きく成長した。
エネルギー革命も起き、石炭から石油へのシフトが急速に
進んだ。
 私が入社した日本ダッジファイバーズも、親会社の中興
工業は石炭関係の会社だった。斜陽化する石炭産業から脱
却するために、多角化を模索して、アメリカのダッジ社と
提携して日本ダッジファイバーズ社を作ったのだ。
 一方政治的には、一九六八年頃から「安保反対」の学生
運動が激しさを増して、多くの大学でデモやバリケード封
鎖が頻発した。また、東大闘争や新宿騒乱(騒乱罪適用)
や佐世保エンタープライズ阻止闘争など大規模な騒動が相
次いだ。
 余談だが、「日米安保条約」第一回目の改訂は一九六〇年、
岸信介総理大臣によって締結され、十年後の第二回目の改
訂は、弟の佐藤栄作総理大臣によってなされた。二人は、
安倍晋三元総理大臣の祖父と大叔父にあたる。
 さて、私は一九六五年十二月、日本ダッジファイバーズ
に入社したが、会社はできたばかりで、決まった製品やプ
ロジェクトはなく、何から手をつけて良いか分からない状
態だった。
 周りを見ると、東大出や九大出の錚々たる顔ぶれだった
が、皆のんびりした様子で、私だけが「さて困ったなぁ」
と焦っていた。そうこうするうちに、長崎の松浦工場に「研
究室長」として配属になった。
 赴任前、平野工場長から「研究室は君に任せるから基礎
から構築するように」との命令を受けて気合は入ったが、
いざ赴任してみると、中央から遠く離れた長崎の松浦では
情報が思うように入らず、夜行列車でたびたび上京しなけ
ればいけない状態だった。
 「これでは情報収集が遅れて、製品の開発はおぼつかない」
と、強い危機感を持つようになった。そこで、経営陣に関
東への進出を進言したところ、すぐに採用された。
 一九六六年十二月、神奈川県横浜市の戸塚工場の一角に
「横浜研究所」として移転した。
 これを境に、私の活動の舞台は横浜に移った。
 私は研究開発の主力を、ガラスの織布にテフロンを塗布
した「フローグラス」に絞り込んだ。
 当時、フローグラスはまだマイナーだった。
 「なぜ、マイナーなフローグラスの製品化に力を入れたの
か?」と疑問を持たれたが、私としては、岡野先輩から「こ
れからはフローグラスの時代だ。その製品化に力を入れろ」
との強いアドバイスをいただいたことや、「他社が目を向け
ていない物事や製品にこそ活路がある」との信念があった
からである。



16[フローグラスベルト]
 ある日の部門長会議。
 「このままでは会社は潰れるぞ。研究開発部は何か案はな
いのか」
 中原常務の、叱責混じりの厳しい質問が飛んだ。
 日本ダッジ社は、創立以来、方針や方向性がなかなか定
まらず、経営は日を追って悪化していたのだ。
 私は、中原常務の質問を受けて、思い切って、今までの
研究を踏まえた意見を述べた。
 「今後、我が社はフローグラス製品に最大限、力を注ぐべ
きだと考えます」
 そして、付け加えた。
 「とりわけ、ベルト製品の成長性に着目すべきだと思いま
す」
 テフロンは、家庭用としては「テフロン加工鍋」がよく
知られているが、工業用としては用途が広く、①機械用、②
電気用、③粘着テープ用、④ベルト用など多くの用途がある。
 私は、その中でとくにベルト用に着目した。
 時代は大量生産時代に入っている。多くの製品が流れ作
業で生産される。どの企業も、より短時間のうちにより多
くの製品を生産することが、企業存立のための至上命題だっ
た。
 その状況下で、ベルトは重要な役割を演じる。
 そして、テフロンの持つ特性が、他の素材を圧倒する。
 テフロンの特性は、テフロン鍋に代表されるように、高
温に強い、くっつかない、薬品に強いなどだが、これらは
商品の大量生産工程において必要不可欠の要素なのだ。
 「テフロンをガラス織布に塗布したフローグラスこそ、我
が社の救世主だ」私は、強く思った。
 私の発言を聞いた中原常務の決断は早かった。直ちに「フ
ローグラス開発部」が結成され、私はベルト開発チームの
リーダーに任命された。
 リーダー下命は光栄だったが、メンバー八名の顔を見渡
すと、あちこちからかき集められた新人や戦力外通告を受
けたような人たちばかりで、正直私は「まいったなー」と思っ
た。しかし、その時、母の言葉が頭をよぎった。
 「人にはようせんばよ」
 彼らは既成概念に染まっていない真っ白な人たちや、他
に行くところがなくここを最後の拠り所にしている人たち、
いわゆる「普通の人ではない」人たちだ。私もだが……。
 私は「皆、予想外の力を出すかも知れない。これもあり
だな」と思い直して、八名で一致結束して開発を進めて行
くことにした。
 彼らには、私が過去に宮崎先生や中野先生や岡野さんに
してもらったように、できるだけ褒めて良い面を引き出そ
うとした。案の定、皆はそれに応えて、それぞれの持ち味
を発揮して、予想以上に頑張ってくれた。
 しかし、「フローグラス開発部」での数年間は、試行錯誤
の連続で、苦労は尋常ではなかった。
 製品開発を進めながら、パンフレットを手作りしたり、
ユーザーや装置メーカーへの啓蒙活動を続けたりと、毎日
帰りが遅くなるどころか、帰れない日も多かった。
 しかし、ゼロックス、森永製菓など大手企業が少しずつ
テフロンベルトを採用してくれ始め、前方に明るい光が差
してきたような気がした。



17[開発部の成功]
 富士紡績から、「静電気防止タイプのベルトをつくってほ
しい」との相談を受けた。まだその頃は市場にそのような
タイプがなかったので、私たち開発部は「腕の見せどころ」
とばかり、張り切った。
 研究の一方で、実際の製造ラインに潜り込んで、気の遠
くなるような実地テストを何度も繰り返した結果、ようや
く新しい方法(継ぎ目・段差のないウィービング法)が成
功して、正式採用になった。この成功が、テフロンベルト
を商品化する決定打になった。一九六九年、三十二歳のと
きだった。
 「石の上にも三年」、やはりここでも物事が三年目にして
日の目を見たのだ。
 ここに至るまでにはいろいろな失敗があったが、今思え
ばみな楽しい思い出だ。
 中でも記憶に鮮明なのが、明治製菓の件だ。
 明治製菓のチョコレート製造ラインにテフロンベルトが
採用された。開発部一同大喜びで、万全の態勢で製作と納
入に当たった。
 しかし、「ベルトの蛇行が止まらない」との緊急クレーム
を受けて、皆焦った。
 明治製菓の工務課長から、「クリスマスシーズンなので、
ラインのストップは許されない」と厳しく言い渡され、開
発部全員、徹夜体制でベルトコンベアの監視と調整に当た
る羽目になった。
 工場にはカカオの甘い香りが満ちあふれていて、最初は
食欲をそそられたが、しばらくするうちに鼻につくように
なってきた。夜中に明治製菓の工場の方が親切に「欠けて
不良品になったチョコレートが箱一杯取ってありますから、
よかったらどうぞ」と勧めてくれたが、とても手に取って
口にする気分ではなかった。
 一九六五年末に日本ダッジファイバーズ社に入社して以
来、苦労の連続だった。ふと振り返ってみると、足かけ六
年が経っていた。
 最初の三年間は無我夢中だったが、四年目から成果が出
始めた。
 一九六九年のテフロンベルトの製品化の成功、ベルトの
2プライ化の成功、広幅ベルトとその蛇行防止の成功、
ウィービングエンドレス加工法の成功など、成功が続いた。
 もちろん、これらの成功は私ひとりによるものではない
が、私としては「十分会社に貢献できた」との満足感と達
成感が芽生えはじめた。同時に、自分の力を試したいとい
う気持ちも芽生えてきた。
 私は、いつの頃からか独立を考えるようになった。
 しかし、独立は大きなリスクを伴う。現状を維持してい
れば、明日は約束されるが、ひとたび独立した途端、私だ
けでなく、妻や子どもたち二人も不安定に晒すことになる。
 知人や会社の同僚にそれとなく相談したが、皆心配して
引き止めてくれた。誰よりも、妻は生活の不安を強く訴えた。
 決断は容易ではなかったが、しかし一方で、若気の至りだ
ろうか、私の独立への思いは日を追うごとに募って行った。



18[独立①テフロン]
 「独立」は、会社勤めをしている者なら誰でも一度は頭
をよぎるものだ。その言葉の響に憧れる人も多い。
 しかし、実際の独立は容易ではない。
 組織の中での昇任は、階段をしっかり踏みしめて上って
いけば達せられることも多い。しかし、独立はあたかも別
の衛星に乗り移るようなもので、大きな飛躍とエネルギー
を必要とする。そして、孤独に耐える忍耐心も。
 一九七一年九月、私は日本ダッジファイバーズを退職し
て独立した。三十四歳だった。
 この年、ドルショックが起きて、戦後長く続いた1ドル
360円は308円になった。さらに、一九七三年二月に
は完全な「変動相場制」へと移行し、以後次々と円が切り
上げられてゆく。
 また、一九七二年には沖縄返還、日中国交正常化などが
あり、重要な出来事が国内外で相次いだ。
 私の退職は、会社の反対を押し切ってのものだったので、
残念ながら会社からの支援はいっさい得られなかった。
 製品に関する資料も得意先のデータも、およそ開業に必
要なものは何もかも会社に置いてきた。私が携えてきたの
は、妻子とテフロンへの熱い思いだけだった。
 会社を出たとき、不安と期待が錯綜する中で、母や宮崎
先生や中野先生や宮崎輝さんや岡野さんや、今までお世話
になった方々の顔が走馬灯のように頭を駆け巡った。そし
て、故郷雲仙の勇姿も頭に浮かんできた。
 「これからが本当の勝負だな」私は自分に言い聞かせつつ、
ふっと大きなため息をついた。
 まず落ち着いた先は、横浜市の6畳と4畳半しかない借
家だった。そこが私たち家族四人の住まい兼事務所兼工場
だった。
 今までの安定した生活は、一朝にして超不安定な生活に
陥った。覚悟の上とはいえ、それは思っていた以上に厳し
いものだった。
 その後、これ以上切り詰めようがないくらい生活費を切り
詰めたが、蓄えは目に見えて減ってゆき、生活は困窮した。
 ともかく、現金を稼がなければ食っていけないので、森
永製菓の担当の方に「どんな仕事でもいいので、いただけ
ませんか」と頼み込み、既製品を一個二百円くらいのわず
かな利益で卸させていただくなどして、飢えをしのいだ。
 会社の登記も必要になったが、節約のため、司法書士に
頼まずに自分で申請することにした。
 文具店で書式を買い、近所の人に頼み込んで発起人になっ
てもらい、なんとか申請書の形を整えた。
 それを持って登記所に行くと、申請の列ができていた。
ようやく順番が回ってきたが、担当官は間違いを一カ所ず
つしか指摘してくれない。指摘を受けては訂正して並び直
し、その繰り返しで三日かかった。
 仕事は、少しずつ製品化のめどがついてきたが、やはり
資金面の壁が大きかった。
 思い切って近くの銀行に融資の相談に行ったが、交渉は
期待はずれだった。
 「預金通帳はお持ちですか」
 「いいえ、ありません」
 「それではすぐにはお取引は無理ですね。先ず通帳を作っ
て、ある程度経過を見て融資を検討させていただきましょ
う」
 「取り引きできるまでにどのくらいかかりますか?」
 「一年近くはかかります」
 今、設立資金が必要なのに、一年後では全然話にならない。
私は交渉を諦めて、肩を落として銀行を出た。



19[独立②UV耐性ベルト]
 妻と二人で、テフロン製品を手作りする毎日だったが、
少しずつ売れ始め、6畳4畳半の住まい兼工場は手狭になっ
てきた。
 知り合った近所の石川さんが、私が窮屈そうに仕事をし
ているのを見て、「ここに三畳の間でも建ててやろうか」と、
借家の庭を指差しながら親切に言ってくれた。
 「ここ借家ですから、ダメでしょう」
 「いや、大家は俺の友だちだから聞いてみてやるよ」
 石川さんは大家のところから帰ってくると、
 「大家はいいって言ってるよ」と、事もなげに言うではな
いか。
 「だけど、お金がかかるでしょう」
 「大丈夫だよー。三畳くらいだから、たいしたことないよ。
まかしときな」
 石川さんはとても器用で、家を解体したときに出る窓や
扉などを集めてきて、あっという間に小屋を建ててくれた。
私がお金を出したのは、壁材のベニヤ板と屋根のトタン代
くらいのものだった。こうして、狭いながらも工場が出来た。
 因みに石川さんの息子さんはその後当社の第一号社員に
なってくれた。そして今でも頑張ってくれている。ご縁とは、
不思議なものだ。
 開業間もない頃、世界に激震が走った。一九七三年のオ
イルショックだ。石油価格の高騰によって、世界経済はた
ちまち大混乱に陥った。日本でも、トイレットペーパーの
買いだめ騒ぎなどが起き、諸物価は高騰して、悪性のイン
フレ状態になった。
 しかし、政府や国民の必死の合理化努力で、日本は他国
に先んじてこの危機を乗り越えようとしていた。
 私は、世界や日本の動きを尻目に、目先の仕事に必死で
取り組んだ。
 製品として狙いを定めたのは、UV(紫外線)耐性のテフロ
ンベルトだった。
 岩崎電気からも「まだUV耐性のベルトがないから作っ
てほしい」と相談を受けたからだ。
 当時、大日本インキがUVで硬化する塗料を開発したば
かりだった。それに呼応して、岩崎電気やウシオ電機など
が次々とUVランプを売り出した。
 今までは、例えば缶詰めの場合、缶の表面に熱風を吹き
付けてプリントするのだが、五十メートルくらいの長い作
業ラインが必要だった。しかし、UV照射だと、短い距離で
瞬時に塗料を硬化して定着させることができるので、時間
とスペースが大幅に省略できることになった。
 しかしまだ、この工程で必要となるUV耐性ベルトがな
かったのだ。
 以前知り合ったデュポンファーイーストに、思い切って
出向いて、ケブラー糸(テフロンを使用した半製品)を分
けてもらうお願いをした。
 「UVには向いてないよ」
 「いえ、やり方によっては使えるかもしれませんので」
 必死の交渉で、念願のケブラー糸を仕入れることができ
た。
 また、それをベルト状に織り込まなければいけなかった
ので、あちこち探して浜松にある織り屋さんに行き着いた。
そこは、消防用ホースを織っている会社で、最初は「用途
が違いますので」と断られたが、粘ってなんとか織っても
らうことにした。
 このUV耐性ベルトが意外な評価を得た。岩崎電気でも
OK、ウシオ電機でもOK、日本電気でもOKと、次々に
大手から受け入れられたのだ。
 大手との継続取引の話が具体化すると、悩ましい問題が
起きてきた。大手企業はどこも決まって言ってくる。
 「工場を見せていただけませんか。確認しないと、社内で
取引の承認が降りませんので」
 まさか6畳と4畳半の住まい兼作業場を見せるわけにも
いかず、「当社はどなたにも工場をお見せしないことにして
います」とか「下請けに製造を任せていますので」などと、
冷や汗混じりの弁解をして、なんとかその場をしのいだ。



20[独立③豚小屋]
 設立当初は銀行交渉が芳しくなかったので、恥を忍んで
名古屋の親戚に無心をお願いすることにした。
 断られたら仕事は行き詰まってしまう。しかし、その親
戚は私の説明を聞くと、スパッと百万円を貸してくれた。
 一九七〇年代前半当時の百万円は、今で言えば五百万円
くらいだ。私は、九死に一生を得た。これにより設立資金
が捻出できた。
 それにしても、この頃私は不思議と人に助けられた。
 あるとき、大事な時期に盲腸にかかってしまった。当時、
盲腸は開復手術が必要で、二週間は入院しなければなら
なかった。
 「困ったなぁ。その間仕事ができないなぁ」
 困り果てていたその時、ご近所でもあり、中央大学の後
輩でもある蓮実正道君が、
 「先輩、私が電話番と配達やりますよ」と申し出てくれた。
 「自分の仕事はどうすんの」
 「いや、仕事は兄貴と一緒にやってるんで、二週間くらい
大丈夫ですよ。土日もありますから、問題ないですよ」
 蓮実君のお陰で、大事な時期に休まずに済んだ。
 創業三年くらい経った一九七四年、UVベルトのお陰で、
急に視界が開けてきた。ここでも「石の上にも三年」だった。
 外部の見る目も明らかに変わった。ウシオ電機に行った
時などは、白井さんという名の通った工学博士が出てきて、
「本多さん、たいへんなものを開発しましたね」と褒められ
た。
 「いえいえ、開発なんて。少し手を加えただけですから」
と照れながらも、自分が世間から高い評価を受けられたと
いう実感がこみ上げて、内心とても嬉しかった。
 UV塗料とUVランプの同時出現は、いろいろな商品の
印刷や製造に革命的変化をもたらしたが、私にとってもそ
れは「天から与えられた好機」だった。同時出現に合わせ
て必死にUV耐性ベルトを研究し、製品化に成功したのが、
今日の私の事業の基礎になったのだ。
 妻と一緒に4畳半で試行錯誤を繰り返しながら第一号を
完成させた時の喜びは、いまだに忘れられない。
 注文が増えるにつれて、量産のために広い作業場が必要
になった。
 今度は、豚小屋に目をつけた。近くに、使わなくなった
豚小屋があって、かねてからそこに目をつけていたのだ。
 豚小屋には、いくつかの間仕切りがあるが、それを取っ
払うと長い作業ラインができる。こうして、ようやく工場
兼事務所らしい建物ができた。
 これから事業を拡大していくには、しかし、どうしても
手持ち資金が必要だった。製品を販売した後現金化される
までに、タイムラグがあるからだ。
 事業が拡大するにつれて、再び資金の必要性が生じた。
 資金は、いつも悩みの種だった。
 名古屋の妻の親戚に相談したところ、銀行を紹介してく
れた。その銀行は、第一勧業銀行だった。
 「なんでそんな大きなところを紹介するの」と、銀行名に
驚いて聞き返すと、
 「だって俺そこしか知らないんだもの」と言う。
 創業してまだ三年余りで、豚小屋を改造して工場にして
いるようなわが社には、国内大手の第一勧業銀行はあまり
にも不釣り合いだった。
 しかし、第一勧業銀行の担当者と面談や書類のやり取り
を重ねた結果、晴れて取り引きができることになった。
 その後、第一勧業銀行はみずほ銀行になったが、今でも
取引を継続していただいている。つまり、みずほ銀行とは
創業以来、五十年間のお付き合いだ。
 金融機関としては、一九九〇年、企業誘致に応じて雲仙
市に長崎工場を建てたときに中小企業金融公庫(現日本政策
金融公庫)と知り合って、その後今日まで三十数年間、日本
政策金融公庫とも密接なお取引をさせていただいている。



21[独立?捨てる神、拾う神]
 UVベルトがヒットしてからは、閑古鳥が鳴いていた今
までが嘘のように、岩崎電気や大日本インキなどだけでな
く、日本電池やウシオ電機など大手からも注文が入ってき
た。
 しかし、材料(シート)の仕入れのメドがなかなかつかず、
焦った。というのも、以前勤めていた会社に打診したところ、
「何に使うのでしょうか?それが分からなければ、お出しで
きません」と、にべもなく断られたのだ。それだけでなく、
同社は他社にも手を回して、私の材料調達を妨害した。
 その結果、どのメーカーからも取り引きを断られたり、
法外な見積り金額を提示されたりして、兵糧攻めに遭った。
 同社は私の独立を快く思っていなかったのだ。
 (現社長はとても立派な方で、すっかり関係も修復してい
る。あるとき「おたくは、『本多産業を潰すんだ』って息巻
いていましたよ」と当時のことを話すと、「えっ、そんなこ
ともあったんですか」と、笑いながら驚いていた)
 私は「四面楚歌」に陥った。残る最後の頼みは、アメリ
カが本社のケミカルファブリック社しかない。同社を思い
切って訪問して、エドウィン・J・エメット副社長に実情を
話して懇願した。
 エメット副社長は、私の置かれた事情に耳を傾けてくれ
て、私が話終わると「OK」とその場で供給を約束してく
れた。
 日本人はとかく周りを気にしたり、形式や素性にこだわっ
たりしがちだが、外国人の場合、フランクに人対人で話せ
ることも多い。私は、オープンなエメット氏に救われた。
 その後、エメット氏がどうしてもということで、豚小屋
を改造した工場を見せた。後にも先にも、エメット氏が初
めてだった。見学したとたん、「グッドハウス!」とジョー
クで笑い飛ばしてくれた。
 その後親しくなって、エメット氏は狭い我が家にも来て
くれたことがあったが、まだ幼い私の二人娘に冗談でチュー
を迫るものだから、娘たちがキャッキャ言って逃げ回った
光景を今でも覚えている。
 エメット氏は、材料供給を約束してくれただけでなく、「基
本となる基布も作れ」と、貴重なアドバイスまでくれた。
 それをすぐには実行できなかったが、エメット氏の写真
はいつも私の応接室に飾って、忘れることはなかった。
 三十年経った今、ようやくエメット氏のアドバイス通り、
川上からの生産に取り組み始めた。
 エメット氏は、槌屋に入社以来親身になって指導してく
れた岡野さんとともに私の大切な仕事の恩人だ。
 次に出現した大きなハードルは、原料(テフロン)問題だっ
た。量産して利益を出すためには、半製品ではなく、原料
そのものを仕入れなければいけない。
 しかし、ここでも兵糧攻めが待っていた。DU社やDK社
にはすでに前の勤め先から手が回ってブレーキがかかって
おり、取引は冷たく断られた。
 ところが、A社のみは、担当の方がわざわざ事情を聞きに
きてくれて、「ブロックするのはおかしい。当社はお出しし
ますよ」と積極的に応じてくれた。そして、すぐにサンプ
ルをドンと送ってきてくれた。
 これで、製品製造の目処がついた。「捨てる神あれば、拾
う神あり」、私はまたしても九死に一生を得た。
 以来、今日まで、他のメーカーとは一切取引せず、恩を
受けたA社一本に絞っている。
 東日本大震災でA社の工場がストップして極端な品不足
に陥ったこともあったが、同社はそのような状況にもかか
わらず、「本多産業を困らせてはいけない」と、当社に特別
の配慮をしてくれた。



22[長崎工場]
 月日は流れて、一九七一年に開業して以来二十年近くが
過ぎていた。
 その間必死にもがいて、開業から三年が経った頃から芽
が出始めた。そして、紆余曲折はありながらも、年々右肩
上がりで伸びて、小さいながらも横浜に本社と工場を構え
ることができ、社員数も十数名になっていた。
 一九八〇年代に入ると、景気は目に見えて上向き、八五
年頃からバブルが到来した。株や土地がうなぎ登りに高騰
し、ゴルフ会員券も数千万円もするところが現れた。
 私にはこの頃日本中が踊り狂っているように見えた。し
かし、私にはそれは無縁で、コツコツと事業に専念した。
 東京には、吾妻会、長崎県人会などの組織があって、折々
に集まりが開かれる。私は、できるだけその集まりに顔を
出した。
 同郷人と触れ合うと、自然と故郷吾妻町の匂いが漂って
くるし、町の人たちの消息も伝わってくる。県内のいろい
ろな情勢や情報も聞けるし、母や先生や友のことも思い出
されてくる。
 故郷を遠く離れた私にとっては、郷人会は楽しい和みの
場であり、明日への活力の源でもあった。
 時には、宮崎輝さんや長崎出身の著名な方も姿を見せ、
ご挨拶させていただいたり、ご講話を聞かせていただいた。
 あるとき、その会合に吾妻町の荒木勘勝(かんしょう)
町長がみえて、企業誘致のお誘いがあった。
 私は日頃、なんらかの形で故郷と関わりが持てないかと
考えていたので、お話を聞いたとたん、身体に電流が走った。
そして、迷うことなく長崎への進出を決めた。
 「絶好のチャンスだ。ぜひ、長崎へ進出しよう!」一九八
九年のことだった。
 その後、長崎県との手続きも済んで、企業誘致は本決ま
りになった。私は「故郷に帰る」ことになったのだ。考え
てみれば、一九五六年に家出同然で吾妻町を出たときには、
こんな日が来るとは夢にも思わなかった。私は、自分の幸
運さをあらためてひしひしと感じた。
 いよいよ用地探しになったとき、町長自らが車に同乗し
て町内を案内してくれた。
 「どこでもよかですけん、気に入ったところがあったら
言ってください」
 私たちの車の後ろには町会議員さんたちの車が数台つな
がり、まるで大名行列のようだった。道中、チラッと雲仙
岳を見やると、心なしか微笑んでいるように見えた。
 その夜、懇親会では昔話や今後の計画で座が弾んだ。気
に入った候補地もお伝えして(現工場所在地)、いよいよ工
場立地は具体的になった。
 工場用地は、最初は千二百坪だったが、現在では六千坪
になっている。
 次に重要なのは、人の問題だ。企業誘致をする吾妻町と
しても、過疎化を食い止めたり漁業離職者を救済するのが
目的なので、地元からの採用は最大の関心事だった。
 (※国営諫早湾干拓事業…一九八九年着工して、二〇〇七
年に完工した国営最大の干拓事業)
 役場の会議室を借りて入社試験を行なったところ、「募集
人員十名」に対して三十~四十名の応募があり、人気の高
さに驚いた。
 しかし、応募してきたのはほとんどが漁業や農業に従事
していた方々で、会社勤めの経験もなく、履歴書の書き方
すら知らない有り様だった。



23[社員募集、観桜会]
 長崎工場の従業員募集に当たっては、縁故採用を働きか
けてくる人も多かった。
 ある町会議員さんは、廃業したばかりの元漁師の方をあ
からさまに幹部に推薦してきた。
 「こん人ば課長にしてやってください」「まずは採用試験
の結果を見させてもらえんでしょうか」私は、攻勢をかわ
すのに汗だくだった。
 結局、十名くらいの採用予定が十数名になったが、全員、
最初の頃は品質管理などがまったくできず、製品の半分以
上が不良品になって出荷できない状態が続いた。
 たまりかねて第一勧銀の支店長に、「これじゃどうしよう
もないですよ」とぼやくと、「社長、三年は辛抱しないとだ
めですよ」と慰められた。
 たしかに、その後の彼らの働きぶりを見ていると、地方
の人間は非常に勤勉で、ごまかさないということが次第に
分かってきた。それは、技術レベル云々よりもっと大事な
ことで、経営にとっては何よりも貴重な資源だ。
 そして、最初はあれほど頼りなかった社員が、努力する
とそれなりの人間になってきたから不思議だ。
 長崎進出は、誰からも歓迎されたが、母だけはずっと心
配のしずめだった。
 「こっちに来たのはいいけど、大丈夫ね?」
 私を見かけると、母はそればかり心配した。
 そんな母を喜ばせたいとの思いもあって、私は工場が完
成したら花見会を催すことを考えた。工場の前庭に桜を植
えて、花の咲く頃、花見会を催す計画だ。
 「工場ができたら桜を植えて、花見会をするからね。母さ
んも、皆と一緒に見にきたらよかたいね」
 「そうね。いいね」
 しかし残念ながら、母はその後病に伏して、晴れの日を
迎えることなく二〇〇一年五月、九十二歳でその辛いこと
の多い人生を閉じた。
 花見会は、その後「観桜会」と名付けた。
 社員が一丸となって、数日前から準備をして、当日は自
分たちも楽しみながら、お客様をお招きしておもてなしを
するという趣向だ。場を盛り上げるために、お笑い芸人に
も来てもらっている。
 コロナ禍で開催できなかった年を除き毎年欠かさず実施
して、現在二十五回を数えている。
 地元の方々に加えて、雲仙市長をはじめ県会議員の方々
や、AGC(旧旭ガラス)などお世話になっている各社の方々
も、毎年お招きしている。
 長崎進出に際して知己を得た高田勇知事には何度も見え
ていただいた。
 亡き母も、その日になると見に来て、賑やかな会場の様
子を眺めながら「よかったね」と微笑んでいるように思え
てならない。この企画は今後も可能な限り続けてゆきたい。
 ところで、高田勇元知事だが、出会いは全くの偶然だった。
それも、奥様とが先だった。
 企業誘致の件で羽田から長崎に向かう機中、隣りあわせ
た上品な女性とちょっとしたきっかけで会話を交わした。
 「長崎へはどんなご用で?」
 「企業誘致の調印式が県庁でありますので」
 「あら、私、高田知事の奥さんとお友だちなのですよ」
 「えっ、そうですか」「高田さんの奥さんを紹介してあげましょうか」



24[高田勇知事との出会い]
 機中で偶然知り合ったご婦人の手引きで、図らずもその
後すぐに高田知事の奥様にお会いできることになった。場
所は、知事公舎だった。
 調印式で県知事にお目にかかれるのを楽しみにしていた
ところ、まさか、調印式に先立って、その方の奥様に会え
るとは!紹介してくれたご婦人は綿谷さんという方だが、
幸運の女神のようだった。
 知事公舎で三人で雑談を交わしていると、まもなく知事
が帰ってきた。奥様が、「主人を紹介するわ」と言って高田
知事に引き合わせてくれた。
 知事の第一声は、「本多さんとおっしゃったですね。よろ
しく」そして、笑いながら付け加えた。「家内と友だちにな
るとたいへんですよ。結構強気な女だからね」
 会話を交わすうちに皆はすっかり打ち解けて、最後には
知事から、「本多さん、今度また遊びにいらっしゃい」とお
誘いの言葉をいただいた。
 その言葉に甘えて、その後たびたびお宅を訪問したり、
食事をご一緒させていただくようになった。
 知事は、賑やかな場がお好きで、博識で話も面白かったが、
アルコールは一滴も召し上がらなかった。お湯にブランデー
をほんの一滴垂らして、「うまいな」とおどけることはあっ
たが。
 奥様からは、「本多さん、私のほうが主人より先よね。知
り合ったのは」と、知事の前で冗談混じりに自慢する一幕
もあり、面映い思いをしたことがある。
 高田さん(知事退任後も「知事さま」とお呼びした)は
知事退任後、長崎空港ビルディングの社長になられた。ご
挨拶で長崎空港の社長室を訪ねると、
 「東京の行き帰りには顔を出せよ」と、釘を刺された。
 「はい、ここは関所のような所ですからね」と、冗談で返
した。
 高田さんは、私が東京の行き帰りに社長室を訪ねてくる
のを楽しみにしてくれていたのだ。
 高田勇元知事は二〇一八年九月、多くの功績を残して、
誰からも惜しまれながら、九十二歳で大往生した。
 盛大なお別れ会の会場の席で、私はひとりしんみり故人
を偲んでいた。その時、私を見つけた奥様が、「本多さん、
そんなところにいないで、こっちに来なさいよ」と、ご自
分の席の近くへと誘ってくれた。
 思い起こせば、ほとんど知人のいない長崎で、「県のトッ
プを知っている」ということは、私にどれほど安心感と充
実感を与えてくれたことか。
 そして、見ず知らずの私を家族のように扱ってくれたお
おらかな高田知事と奥様にはどれほど感謝してもしきれな
い。
 高田さんは、勲一等瑞宝章をはじめ、たくさんの勲章を
もらわれたが、私にとっては、高田さんご夫妻と親しいお
付き合いをさせていただいたことが、何よりの人生の勲章
だ。
〈趣味、歌〉
 歌は、長い人生でいつも私のそばにいた。
 苦しい時、悲しい時、よく流行歌に耳を傾けたり、ひと
りアカペラで歌ったものだ。
 三十代の後半になってからは、お客様と酒席を共にする
ことも多くなり、よくカラオケを歌うようになった。
 カラオケは、最初はテープと歌詞カードだったが、一九
九〇年頃には映像付きカラオケが出現した。そして、やが
て通信カラオケになり、今に至っている。
 私は、自慢ではないが、酒屋の息子だけに酒は人並み以
上だが、歌はなかなか上手くならないままだ。それでも、「歌
は世に連れ、世は歌に連れ」、歌はそのときどきの思い出を
連れてきてくれるので、懐かしく、また楽しく、今も趣味
にしている。



25[布施の心]
 長崎工場オープン以来、諫早駅前のホテルを定宿と決め
ていた。諫早駅は島原鉄道も利用できるので便利だ。
 夏も近いある日、遅めの夕食を諫早駅近くの居酒屋で終
えると、久しぶりに本明川沿いを散歩した。川風はひんや
りと頬を撫で、川面に揺らめくネオンの光はそこはかとな
く旅情を誘った。
 私はふと、川沿いの一軒のスナックの前で足を止めた。
 今まで滅多に飛び込みでスナックに入ったことなどな
かったが、なぜかその店は「一度覗いてみよう」という気
を起こさせた。その店は「京子」といった。
 ドアの前でひと息ついて、思い切ってドアを開けると、
明るく弾むママさんの声が耳に飛び込んできた。
 「いらっしゃいませ」
 何の店もそうだが、入ったとたんに明るい声で迎えら
れるのは、「ウェルカムです」と言われているようで気分がよ
い。まして、初めての店では緊張が解けてホッとする。そ
して後で思えば、その声は信仰の道への誘いの声でもあっ
た。
 何度か「京子」に足を運ぶうちに、お客さんとも親しくなっ
た。中でも「市川さん」とはウマがあって、話が弾んだ。
 その市川さんが、あの有名な「脚本家の市川森一さん」
ということは、何度かお会いした後に知り、恐縮した。ご
一緒に食事に行ったり飲みに行ったりしたことが、今は懐
かしく思い出される。
 ママさんは熱心な真言宗の信者得度を受けられたことが、
まもなく分かった。お寺は佐賀県基山町の吉祥寺といった。
そこに月に一度必ずお参りに行くとのこと。ママさんから
何度か話を聞くうちに私も関心が湧いてきて、運転手役を
買って出た。
 ある日、お寺の駐車場でママさんの戻りを待っていると、
和尚さんから声をかけられた。
 「中にお入りになりませんか」
 和尚さんは、ママさんから聞いていたとおり品があり、
私は誘われるままに堂内へとついていった。それ以来、私
自身も当事者になり、ご法話に積極的に参加した。
 和尚さんの教えは、どれもためになることばかりだった
が、中でも「布施の心」は、母の口ぐせの「人にはようせ
んばよ」とも相通じるものがあり、強く惹かれた。
 そして平成23年、私は待望の得度を受けた。
 得度式で静かに仏様に向き合っていると、いろいろな方々
のお顔やお姿が浮かんできた。何よりも、貧しいながらも
愛情いっぱいに育ててくれた母の姿が思い出されて、感謝
とともに涙が溢れてきた。
 宮崎轟先生、宮崎輝さん、中野宅馬先生、岡野良一さん、
石川さん、後輩の蓮見君、エメットさん、A社の皆様、我が
社の社員、吾妻町役場の皆さん、高田勇知事、惣菜屋のお
じさん、飯場の人夫さん、そしてここに載せきれない多く
の善意の方々…感謝しても感謝し切れない。
 「これからの人生、『報恩』と『布施の心』をしっかりと
携えて歩いて行こう」と決意を新たにした。
 この章を書いているまさにそのとき、岡野さんの訃報が
飛び込んできた。岡野さんのお嬢さんが気を利かせて連絡
してくれたのだ。吾妻町から名古屋まで急いだが、お通夜
には間に合わなかった。しかし、お嬢さんの計らいで、安
らかに眠る岡野さんと翌日納棺の前に、二人きりで3時間
程、心ゆくまで積もる話をすることができた。    (完)

 この連載の執筆に腕を振るっていただいたジスコ不動産
社長の徳永耕一様を始め皆様には長い間、私の拙い自
分史をお目通しいただき、ありがとうございました!